ツライことやイヤなことは、我慢せずに、口に出して相手へ伝えよう。
おはようございます。
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たくさんの皆様から、
メッセージをいただきました。
ありがとうございます。
おひとりおひとりに
お返事は出せないのですが、
大切に拝読しております(^^)
さて、先日、
『あなたに〇〇をしてほしいと
考えているんだけど、どうですか?』
と、
職場のあるひとから
声をかけられました。
わたしは、実はそういうとき
『断れない』ヒトで、
『わかりました!やってみます。』
と、つい引き受けちゃうクセがあるんです。
そして、ほんとうは、
『イヤ』だったり、
カラダは悲鳴をあげているのに、
それにフタをして、頑張りすぎて、
無理をしてしまう。
そして、
ブルーな気持ちになったり、
疲労が蓄積してしまう。
そう、
わたしがいつも暗い顔をして、
悩みごとが多くて、
カラダがキツかったのは、
『わたしは〇〇なので、
だからできません』とか、
『わたしは〇〇なので、
だから、こうしてくれませんか?』
というのを、
口に出して
言えなかったから。
そして、自分自身が
口に出して
相手へ言っていないにもかかわらず、
『わたしはこうなのに、
どうしてアノヒトは
ソレをわかってくれないのだろうか?
言わなきゃわかんないの!?』
なんて、
モヤモヤ思ったりしていたから。
そうして、
しばらくしたある日、
大きな病院の待合室で、
座っていると、
前の席にいる
70歳くらいのお母さんと、
40代後半くらいの娘さんが
こんな話をし始めました。
『わたし、耳が遠いでしょ。
だからね、ヘルパーさんが、
大きな声でしゃべるのよ。
いつもいつも。
でもね、わたしはそれが
イヤでイヤでたまらないのよ。
大きな字で、
書いてくれればいいのに、
それだったらわかるのに。
なのにどうして、
書いてくれないのかしら、
大きな声をだしてばかりで。
あのヘルパーさんって、
本当にダメよね』と。
すると、
娘さんは
『お母さん、違うでしょ。
そうじゃないでしょ。
どうして、
そのときに言わないの?
わたしは、
大きな声でしゃべってもらうよりも、
大きな字で書いてもらったほうが
わかりますって、
「そのほうがいいです」って
ヘルパーさんにそう言えば、
書いてくれるようになるのに、
どうして、いつも
それを言わないで
そうやってガマンしちゃうの?』と。
そして、こうも続けました。
『毎日、毎日、
お父さんの顔色を見て、
お父さんにすべて合わせるように
生きてきたでしょ?
だから、
外に出ても、
相手に全部合わせようとして
疲れちゃうんだよ。
そんなこと、
しなくていいんだよ。
わたしはこうこうだから、
こうしたいって、
言っていいんだよ』と。
わたしは、
この母娘の会話を聞いて、
自分の母を思い出しました。
実は、
わたしの母も
同じような状況になっているからです。
母は
『団塊世代』の終わりのほうですが、
『男尊女卑』
『父親は一家の大黒柱』
『女は家にいて産み育てていればいいい』
『飯はまだか、風呂はどうした、寝るぞ!』
そして、
男女雇用機会均等法ができる前より生きてるから、
『女ごときが働いてどうなる』
『結婚相手を見つけるまでのコシカケだろ』
という
思想がフツウだった時代。
職場の上司に、
おっぱいとかおしりとか
触られても、
『セクハラで訴えますよ!!』
なんて、
言えなかった時代。
『セクハラ』なんて言葉は
存在しなかった時代。
女は黙って耐えていた時代。
わたしの母は、
ずっと父の顔色を見ながら生きてきた。
自分の意思や意見にフタをして、
父の言うとおりに
父に合わせて生きてきた。
『お父さんがー』
『お父さんがー』
母の口ぐせはこうだった。
生活の中の
すべての決定権は父にあった。
銀行口座はすべて『父の名義』
大事ななにかも、すべてそう。
意見を言っても、否定されていた。
だからもう
何も言わなくなった。
そうこうしているうちに、
母の唯一の息抜きだったパート勤めも
年齢が来て、辞めることになった。
そして同じ時期に、
定年退職した父も
ずっと家にいるようになった。
わたしも、
あの病院の待合席で見た娘さんのように、
『お母さん、そうじゃないよ。
お父さんの顔色を見て、
いつもいつも
そんなに合わせなくていいんだよ。
自由なんだよ。
自分の思うことを、
相手に伝えたらいいんだよ』とか、
母へ言うことがある。
でも、
悲しいかな
65歳くらいになると、
それまでの生き方が染みついていて、
ピンと来ないみたい。
父の方も、
それがフツーでやってきたから、
わたしの両親は
ハタから見たら、
なんでこのオヤジは、
こんなに奥さんに対してイバってんの?と。
おい、オヤジ、
そこって、イバるところなの?
いつもいつも、
イバりすぎだぞと。
そういえば、
近所のスーパーへ行くと、
39円のモヤシを握りしめて、
『オイッ!このモヤシはどうするんだっ!』とか、
奥さんにワーワー言ってる
ダンナさんがいる。
年齢は、ウチの両親と一緒ぐらい。
奥さんの顔には、
もう
『表情がない』
ああ、そうね
とかなんとか小さくつぶやいて
下を向いて、
暗い表情をしている。
だいたい、
そもそも、なんで
スーパーへ、
定年退職したオヤジが
ノコノコと、ついて来るのだろうか。
奥さんは、今までひとりで
お買い物をしていたのに。
『自由にできる』
貴重な時間だったのに。
そういえばまるで、
昭和時代を生きてきた『上司』のように、
『部下』へ粗雑に命令する
あのエラそうな口調に似ているなぁと。
『オイッ!』って大声で。
それって、なんだよと。
穏やかな声で、名前を呼ぶとか
できないの?と。
モヤシだろうが、
エノキだろうが、
いいじゃないか、
どっちでも。
鍋に入れれば、
どうにでもなるんだってば。
なんで、
そんなに
イチイチ難癖をつけるのかなぁ。
ああそうか、
会社員時代に長年やってきた、
『ヒトの足をひっぱって、引きずり下ろす』
『出るクイを打ちまくる』
そういうクセが抜けないのか。
『ヒトに難癖をつけて、自分を良く見せよう』
そういうクセが抜けないのか。
うーむ。
世の中にはいろんなヒトがいる。
スーパーへ行ったり、
近所を散歩するだけで、
いろんな人達を目にする。
そういえば、
こういう人達もいる。
わたしが出勤する際に、
必ず通る道がある。
その、
あるご近所さんの
戸建の家の前で、
毎朝『ママ友さん』たちが立ち話をしている。
必ず5人。
そう。
アソコと、わたしとは
『住んでいる世界が違う』
ということだ。
深読みをして、
『ご近所のウワサ話』をしているのだと仮定すると、
『アソコの家、お子さんいないみたいよ。
なのに、庭の植物は増えていく一方ね。クス(笑)』
だったとして、
でも、
はっきりいって、
そんなのどうでもいい。
なんとでも言ってくれ。
笑いたければ笑えばいい。
わたしはそう思っている。
だってわたしは、
雨の日も、傘をさして
向こうの自分の家から必ず通って来る
あの5人の輪へ、
入りたいだなんて思わないし、
そもそも、
『価値観が違うよね』と
考えているから。
ママ友さんたちは、
『子供が大事』なんだろうし、
毎日、
『あの輪』へ加わらないといけない
なんらかの理由があるんだろうし。
わたしのほうは、
子供がいないから
そんな理由もないし、
夫とふたりで、
『好きなように生きてる』だけなんだから。
それは、
ご近所さんや他人さんへ
『迷惑かけてる』ことではないので、
他人の目を気にして、
不安に感じたり、
モヤモヤ考える必要もないわけで。
そう。
堂々と生きて行けばいいのだと。
と、そんなことを考える
土曜日の朝なのでした。
ではまた!
この週末も、『自分の好きなように』
過ごしてまいりましょう(^^)
今日、気づいたこと
自分の人生なんだから、
好きなように生きよう。
そしてその際、
人間関係のなかで、
『こういうのはイヤだからやめてほしいな』とか
『ツライからやめてほしいな』
『こうしてほしいな』というのは、
自分の中で
じっとガマンするのではなく、
口に出して、相手へ伝えよう。
するときっと、
相手もわかってくれるハズだ。
なんだとー!!
とか言って、
怒りだしたり、
イヤなことを
もっと仕掛けてくるんだったら、
それは、
その相手が、
『ヒトに対する思いやり』がナイってことだと思う。
『そこまでのヒト』
『それぽっちのウツワでしかなかった』ってことだ。
わたしの人生に、
『そういうヒト』は必要ない。
心の中では『終了』
次第に、フェードアウト。
距離をとって、サヨウナラ。
だって、
『人類みんなと仲良く』なんて、
できっこないから。
どこかで、皆お互いに
うまく、折り合いをつけようとして
やってきているのに、
それができないんだったら、
そういうヒトとは
『接点を持たない工夫をする』しかないなと思うから(^^)