子供を一生苦しめる『毒になる親』というのが存在している事実。
こんにちは
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
突然ですが、
今日は『親』について、
かなり重いことを書きます。
あまり、知られていないかもしれませんが、
『親』というのには
実は2種類ありまして、
『ふつうの親』
それと、
『毒になる親』
なぜ、こんなことを書くのかといいますと、
実は、
わたしを産み育ててくれた両親は、
『毒になる親』のほうだったからです( ̄ー ̄)
『毒になる親』というのは
なにかというと、
これらの本を読むと一発で理解することができます。
クリックしてAmazonのレビューを読むと、
いかにその数が多いのかがわかります。
『毒になる親 - 一生苦しむ子供 -』
スーザン・フォワード 講談社 2001-10-18
『不幸にする親 - 人生を奪われる子供 -』
D. ニューハース 講談社 2008-01-29
いわゆる、
『精神的虐待』『身体的虐待』などをする
子供に害(毒)を与える親のことです。
わたしの親は、
『精神的虐待』の方でした。
特に、父が。
『親』というのは、通常であれば、
子供の成長していくさまを
喜ぶものですが、
わたしの両親は、そうではなく、
『自分たちの思い通り』に
子供が発言し、
行動することを喜びます。
自分たちの気分が良くなるように、
そのツール(道具)として、
子供の言動をコントロールできることを
生涯において強く望みます。
自分たちにとって、
『いい子』
『あつかいやすい子』
『聞き分けのいい子』
『まったく反抗しない、従順な子』であることを望みます。
『子供の成長』じたいに、なんら関心はなく、
ずっと、
『自分たちの都合の良い道具』でい続けることを
生涯において強く望みます。
例えば、
『今度の日曜日、12時に実家へ集合』というのを、
わたしが、カゼで高熱が出たりして、
行けなくなると、
『親をないがしろにしやがって!なんてヤツだ!』
という思考になります。
それが、
『お父さんが新車買ったから、見に来てホメてほしい』
という理由だったとしても。
『うわー
こんな新車買ったんだー、
お父さんってスゴイね!』と、
賞賛しないといけません。
なんで、この車種なの?
とか思っても、
『どうして、”こんな車”買ったの?』とか言うと、
激怒です。
父の気持ちが満足するような言葉を
アレコレ推測し、選びながら、
話さなくてはなりません。
父の言うコトなすこと、
すべてホメなくてはいけません。
とにかく
いばっています。
気に障るようなことを言うと、荒れます。
うわー
地雷がソコにあったのかと、
そういうことがよくあります。
オレ、オレ、オレ
『オレが一番エライ』のだと。
ココは、オレの家なのだから、
オレの自由にしていいのだと。
ただのサラリーマンを引退した、
しがない、ただの年金取得ジイですよ。
めんどくさいですね。
母は、
父が暴言を吐いたり、
酒に酔って暴力を振るうのがイヤなので、
イエスマンに徹しています。
どういうワケか、わたしの両親は、
昔からそうなんですね。
残念なことに。
で、先日、
『オマエは結婚してからヒデェヤツになった』と、
わたしのダンナの前で、
シラフの父から言われました。
まあ、
コレをわかりやすいように訳すと、
『結婚してから、娘が
親の望む通りの言動をしなくなったから、ムカツク』
ってことなんですが、
こうなると、わたしは、
両親を永久に放置して、
ダンナと二人で、
遠い異国の無人島にでも
移住しようかなぁという気持ちになります。
恐ろしいナァと思うのは、
『親』というのは、
精子と卵子があれば、
『誰にでもなれる可能性がある』ということです。
まあ、
わたしは、受精も着床もなかったんで、
それ以前の問題なんですが。
なーんにも考えてなくても、
受精して、
月日が経てば、産まれてきて
『エッヘン、俺は父親だぞ!』とか、なるわけです。
『子供の心と寄り添う』とか、向き合うとか、
そんなの、ぜーんぜん知らなくても
『わたしがお母さんよ』とか、なるわけです。
オソロシイですね。
そういうヒトたちでも、
生まれてきた子供を育てるワケです。
真っ白で、
何も知らない、
無垢な赤ちゃんを、
育てていくワケです。
わたしの中の『心の闇』を
深ーく、深ーく見つめたときに、
『わたしが子供を産めない』というのは、
『両親に孫を見せることができない』
という『罪深い気持ち』
孫の誕生を待っている両親を、
『喜ばせることができない』
それは、本当に
『ダメなわたし』なのだと。
自己否定
自己蔑視
自己嫌悪
これらの思いに、
わたしの心の中は支配されました。
だけど
ある時気づいたんです。
『そんなのシラネ』と。
孫の誕生を待っているのは、
ジイサンとバアサン、
ふたりの都合であって、
あそこの家は、孫が何人。
ウチは何人だ、少ないとか。
『孫の世話をしてみたかったわぁ~』とか。
でも
ふと立ち止まって、考えると、
ナニソレ
それって、
『孫人数競争』かよと。
『孫体験』をさせてあげられなかったら
でき損ないの嫁、悪い娘とか、ナニソレ。
こっちは、
産めないんだぞ、
出産経験できないんだぞ。
育児経験できないんたぞ、
ナニ言ってんだよ、
ゼータク言ってんじゃないよと。
なんで、
そんな欲深い、『親のエゴ』に
巻き込まれなきゃいけないワケ?と。
考えないといけないのは、
そういうことじゃないよねと。
ウチの実家は
資産何億円の家でしたっけ?
ただのフツーのサラリーマンを定年退職した
年金取得者だったハズですが。
孫がいなかったら、
何かマズイことでもあるのかなと。
『みんな墓を持ってるから、
墓を買いたい』とか。
もう墓守ができないから
『墓じまい』をしたいって、
子孫の皆さんがご苦労されている
このご時世に、
なんであらためて
土地ごと墓を買おうとするのだろうか。
墓守の対象となる孫は、たったひとりしかいないのに。
この幼い少女に、
義務のすべてを背負わすのですか?
墓の維持は、お金も時間もかかるし、
タイヘンなんですよ。
大きな墓がないと、
世間の目があるでしょうがって
世間の目って、誰の目?
『自分の目』のことでしょうが。
アレがないから、ヒトに負けている、
コレがあるから、勝っている。
高いお金を出して、
墓守を背負わす『石の墓』を立てて
それをして、
どうするんだと。
『永代供養をなめんなよ』
こんな素晴らしいシステムがあるというのに。
何言ってんだと。
相続問題に支障がでると言うならば、
それはこれからどうしようか?とか、
弁護士のセンセイに相談して、
整理しようねとか、
なんだとか、
そーいうことを考えて、
解決していけばいいわけでしょうがと。
『孫が少ないから肩身が狭い』とか、
『孫がいないから恥ずかしい』とか、
『孫がいないから、アイツに負けた』とか、
いったい、
なんと、貧相な発想なのだと。
わたしは、
自分に子供ができなかったら、
『じゃあ、これから
どういうふうに生きて行こうかな』
と、そうやって
『自分のこれからの生き方』だけに注目して、
それだけを考えればよかったんだけど、
『毒親』から育てられた関係上、
『孫がいないと、親が悲しむ』
『親を悲しませるわたしは、悪い娘だ』
と、自動的に
そんなことを考えてしまった。
だから、
『生き苦しくなった』
なにもかも、
ぜんぶ、
わたしが背負い込んでしまった。
わたしの両親が
これから幸せになるか、ならないかは、
『わたしに全部かかっている』のだと。
わたしの両親が悲しむのは、
わたしのせい。
わたしの両親が、
『世間に対して肩身が狭い』と感じるのは、
わたしのせい。
ぜんぶ、
わたしのせい。
その昔、
そんなわたしを救ってくれたのは、
ダンナのお母さんが生前言った、
ひとつのことばだった。
『申し訳ないなんて、考えなくていいのよ』と
ふたりが仲良く暮らしていれば、
子供なんていなくても大丈夫なんだから。
お義母さんは、
ヘンな女と浮気をした、自分の夫を捨てて、
まだまだ偏見が残る昭和の時代に、
母子家庭で
わたしのダンナをひとりで育ててくれたひとだった。
わたしの両親は、
そうだなー。
残念ながら、
かなりザンネンな人間のタグイだったようだ。
わたしは、
どういうワケか、
『自分のことを、自分で処理できずに、
いろいろをヒトに求め、
ヒトのせいにする人間』に育てられてしまった。
『ヒトよりも優位に立ちたい』
『ヒトに賞賛されたい』
でも、
『うまくいかないのはヒトのせい』
『賞賛されないのはヒトのせいだ』
すべては、ヒトのせいだ。
悪口を言おう。
そういうことを刷り込まれて育ってきた。
でも、ハッキリ言って、
それは、生き地獄。
そんなことやっても、
なにも解決しないから。
いつもいつも、
家の中は、ヒトの悪口ばかり。
あいつが悪い。
こいつが悪い。
そんな家に、
『幸せ』なんてやって来るハズはない。
ああそうか、
知らないんだよね。
『幸せは、自分のこころがきめる』んだよ。
ねえ、ねえ、
お母さん、知ってた?
お父さん、知ってた?
自分の心の中に、
『幸せ』ってあるんだよ。
なーんだ。
そんなことも知らないのか。
そんなことも知らなくて、
わたしを育てたのか。
そうかー
そうなのかー。
罪深いなー。
おかげで、
ずいぶんツライ幼少時代だったよ。
大人になってからも、
人間関係がボロボロでね。
社会に出て、
親のやってるとおりに
ヒトの悪口を言って、
行動していたら、
そうなっちゃったんだよ。
ここまで来るのに、
ずいぶん遠回りさせられたんだよ。
知らなかったでしょ。
そりゃそうだよね、
『子供の心』に
寄り添ったことがなかったからね。
『子供』は、
『親の道具』でしかなかったからね。
どうして、
この人たちの子供に生まれたのかな
わたしは。
こたえはただひとつ。
『子供は親を選べない』からだ。
『親を選んで
産まれてきたかった』わたしが思う。
あたたかくて、仲の良い
夫婦の間の子供に生まれたかったなぁと。
そんなわたしは、
子供を『産めず』
わたしの代ですべては終わるのだけれど、
まーいっか。
そういうこともあるんだよ。
世の中には。
ああ無情ってやつだ。
そんな中でも、
自分で切り開いて生きて行くのが人生なんだよ。
甘ったれるな毒親め。
『子供』に『心の面倒』をみてもらう親は、
親じゃないんだよ。
そんなこともわからないのか、
いったい、何年生きているんだ
情けない。
どうか、
この世に生まれてきた子供たちが
健やかにのびのびと生きていける
そんな
あたたかい両親に恵まれますように。
願ってやみません。
今日、気づいたこと
『毒親撲滅』のためにも、
これからもブログを書き続けるのであった。
理不尽に負けず、
上を向いて、生きて行くのだ。