『自分のために生きる』ということ。
こんにちは
いつもご覧いただき
ありがとうございます。
朝、目が覚めて
カレンダーの
『5月』を
1枚めくった。
やっと
『6月』になった。
長かった。
とっても
長かった。
わたしは、
『熊本地震』をきっかけに、
『ココ』へ書く『言葉』が
ある日突然、
出てこなくなった。
自分から出てくる言葉を、
『薄っぺらい』
と感じるようになり、
ああナルホド、
それは自分が
『薄っぺらい』から
なのだろうなと。
地震は、
忘れたころに
何度もやってきた。
そして
そのたびに、
いろんなことを
考えた。
わたしの人生
わたしの一生。
今ここで、
『わたしの人生』が
『終わる』としたら、
『これでよかった』のだと、
わたしは笑って
言えるのだろうかと。
たくさんの『後悔』があった。
そして、
『くやしい』という気持ちが
わき出てくるようになった。
どうして
『くやしい』のかというと、
『自分のこれまでの人生』は、
『生ききったなぁ』
という日々では
なかったからだ。
振り返ると、
『ガマンばかりの人生』だった。
ああそうか、
わたしは、
『わたしの両親のために』
これまでずーっと
生きてきた。
41年間も。
頭の中には、
『ああしなければいけない』
『こうしなければいけない』
『両親を
悲しませるようなことは
してはいけない』
『両親が喜ぶように、
生きなくてはいけない』のだと。
『生きる基準』は、
常に
『わたしの両親』だった。
そう。
わたしは、
『自分のために、
生きてこなかった』のだ。
長い
1か月間だった。
こういうことに
『気がついて』からは、
おどろきすぎて、
『寝込む日』もあった。
わたしの『苦しみ』は、
『わたしの中』にあった。
こういうのを
『インナーペアレンツ』って
言うのだそうな。
自分の中にいる
『親の声』
がちょーん
わたしゃ、病気か?
いや、
そういうものではないらしい。
生まれてからこっち、
自分が育ってきた環境、
両親からの『しつけ』とか
『教育』のなかで、
『すり込まれていること』
を指すようだ。
いろんなヒトがいる。
『ふさわしい』とか
『ふさわしくない』とか、
そんなことではないのだ。
受精して、
無事に十月十日たって、
産まれたから
『親』になった
ただ
『それだけのこと』なのだ。
『親の威厳』を示すために、
『北海道の山の中』へ
7歳の子供を
『置き去り』にするという
『しつけ』をするヒトも、
受精して、
無事に十月十日たって、
産まれたから
『親』になった
ただ
『それだけのこと』なのだ。
さあ、
『6月』
今年も
半分まで来ましたよ。
わたしの人生も
『半分まで』来たなぁ。
両親を喜ばせようと、
親のために生きてきた
この人生は、
気がつくと、
『くやしいこと』だらけに
なっていた。
でももう、
そんな生きかたは、
ココでおしまい。
ココで終わりにする。
今日からわたしは、
『自分のために生きる』
『自分の生きたいように生きる』のだ。
それではまた!
みなさまも、
自分のための
素晴らしい日々でありますように。
休日は『すさんだ心』を癒すかのように
『こういうこと』をしながら『5月』を過ごしていました。
おかげさまで、手と顔が日焼けして『真っ黒』。
高樹沙耶さんのようになるかも。
そーでなくてもわたしゃ、シワシワですよ。
あらまー どーしましょー。