『娘の人生』は『お母さんの人生』ではない。
今回は、
ちょっとしんどいことを
書きますね。
『子ども』と『親』
『娘』と『母親』の
関係についてです。
人間というものは、
『自分の歩めなかった人生』を、
『自分の子ども』に
歩んでもらいたいと
ついつい
思ってしまう
いきもの、なのだそうです。
そういえば、
幼いころ、
わたしの母は、
子どものわたしにむかって、
これは
『あなたのため』なのだから
という言葉を
よく使った。
するとなんだか
『もやもや』した。
そして、これは
『わたしのため』なんだから、
これは『わたしのため』
なんだからと、
あたまの中で、
まるで呪文をとなえるように、
もやもやも、
いろんなことも
『ガマン』するように
なっていった。
あるとき母が、
『子供を産み育ててこそ一人前』と
娘のわたしに言った。
だからわたしは、
無条件でソレを信じた。
母は『わたしのため』に
言ってくれていると
思ったからだ。
だからわたしは、
『子どもを産めない女』は
一人前になれない!
それは大変なことだ!
どうしよう!!
と思った。
あるとき母が
ポツリと言った。
母は、祖母に、
『子供を産み育ててこそ一人前』と
少女のころから
なんども、なんども
言われてきたのだと。
だから、祖母の言うとおりに、
23歳までに
結婚しないといけなかったし、
早く子供を産まなくちゃ
いけなかった。
だから、
たいして好きでもない
男の人と結婚したのだと。
そしてそれが
あなたたちの
お父さんなんだけどねと。
ふーん。
そうなのかー。
『子供を産み育ててこそ一人前』ってなに?
不妊治療を
ようやく
あきらめることができて、
心身もすこしずつ
回復してきたころに、
わたしはやっと、
これらの話を
ゆっくりと
振り返れるようになった。
うーん
『子供を産み育ててこそ一人前』
っていうのは、
じつは、
なにも根拠がないよねと。
だって、
言い始めた『祖母本人』は、
4人の子供を
産み育てても
70歳近くになった
子どもたちに
『うらまれたまま』
人生を終えたし、
わたしの母にいたっては、
『過干渉』せずにはいられない
『子離れできない親』
『子どもに依存する母親』に
なってしまった。
おかしいなぁ~
産み育てたら
ひととして『一人前』に
なれるんじゃなかったのか?と。
うーん。
わたしの心のなかで、
それが一番、
どうしても
納得のいかないところだ。
わたしに言ってきたことと、
言ってた本人、
母と祖母の『結果』が
なんとゼンゼン
違うじゃないかと。
わたしは
『母の過干渉』が
あまりにもヒドイので、
これはもう、母を
『心療内科』へ連れていくしか
ないんじゃないかとか
考えている。
それを
葛藤しながら、
『罪の意識』を抱えながら、
ずーっと
考えているのです。
わたしの母は
『2人』も産み育てたのだから、
一人前な
『立派な女性』じゃなかったのか?
なぜ?
どうして?
母はどうして、
『一人前』になっていないのか?
ということなんですよ、
問題は。
『産み育ててこそ一人前』の意味が
わたしにはわかりません。
だって、わたしの母は、
あまりにも
『精神的に未熟』だからです。
『幼稚園児のよう』
とかいう意味ではありません。
いいオバサンなのに、
『自分のこと』が
よくわかっていない
ようなのです。
自分にとって、
なにがうれしくて、
なにが人生を充実させるのか。
自分は、
どう生きたいのか?
それが、
頭の中に、なにもなくて、
人の目が気になって、
不安の中で生きている。
どうしたらいいの?
どうしたらいいの?と。
パッと見
明るく見えるのに、
不安で
夜が眠れないと言うのです。
もう、昔から。
なぜ母は、
こうなんだろうか?
世の中、
不安だらけだよとか
言うのです。
だから、
娘が成人して
40歳を過ぎたのに、
自分の手もとへ
引き戻そうとします。
『大人になった娘たち』を
自分のもとから、
手放したくないのですよね。
『不安』だから。
娘の作った家族を
過干渉して、
内面から破壊すれば、
離婚して
帰ってくると思っている。
それを
計算せずに、
『自然にやっている』ところが
タチが悪いんです。
あーもう
だれか、あのオババを
どうにかしてくれい。
なぜ、母は、
精神的に
自立できないのだろうか。
『娘の人生』と
『母親である自分の人生』とを
なぜ『一緒』に
ひとくくりにして
考えてしてしまうのか。
娘と一緒じゃないと
不安だから?
あーあ。
『闇』は
とーっても、深い気がする。
事情をしらない他人たちは、
『お母さんを大切にしなよ』
と言ってくる。
あーはいはい。
そうですね。
もうじゅうぶん、
大切にしてきましたけどね。
幼いころから
『言うこと』は
ぜんぶ聞いてきましたよ。
言われたとおりに
レールを引かれたとおりに
ちゃーんと
生きてきたよ。
お母さんのできなかったことを、
娘のわたしが代わりに
一生懸命、
歩んできましたよ。
『母親の思い描く人生』を
かなえてあげようと、
もうめちゃくちゃ
努力しましたよ。
だからもう
これ以上の
親孝行はできないんですよ。
もう
ヘトヘトなんですよねと。
今だったら
声を大にして言える。
オタクのお母さんと
ウチのお母さんは
『違う』んですよねと。
あなたのお母さんは、
子どもに、
『自分の生きたいように、生きろ』と
言うでしょう。
わたしのお母さんは、
子どもに、
『わたしの言うとおりに、生きなさい』と
言うのです。
『娘の人生』は『母親の人生のつづき』ではない
世の中には、
子どもを産んだ女性の数だけ
『お母さん』がいる。
お母さんはすばらしい。
お母さんは偉大だ。
できればわたしも
『お母さん』になって
母に孫を見せたかった。
そしてそれを
かなえることができたら、
どんなにわたしの母は
満足しただろうか。
だけど、
それはムリでした。
生物的に
無理だったんですよ。
しょうがないんですよ。
できなかったものは、
しょうがないんです。
わたしから生まれてくる子どもは
『いない』んです。
『いない』んだから
もう期待するなってことなんです。
もうそろそろ、
『娘に依存する生き方』を
あらためないと、
あなたの寿命がきますよ。
それで、
ほんとうにいいんですか?
ということです。
『娘の人生』は、
『お母さんの人生のつづき』では
ないんですよ。
『娘の人生』と
『自分の人生』とを、
切り離して考える『お母さん』が
『ふつうのお母さん』です。
それを、どうして
ウチの母は、
わからないんだろうか。
なんで、
わからないんですかね。
いいかげんにしないと
心療内科に連れていくぞって
ことなんです。
悩まなくていいことを
悩んでいますね。
それは、
『娘の歩んでいる人生』を
『自分の人生』だと、
カンチガイしているからです。
そこのところを、
どうやって
理解してもらうかなんだけれど、
むつかしいなぁ~
言ってもわかってもらえません。
口で説明しても、
なに言ってんの?
娘の人生は
わたしの人生でしょ?
と言います。
ダメだこりゃと思います。
もう、最後の手段です。
この本を贈るしかないかしら?
とか考えているこのごろです。